出版等事業:本関連

日本海学の提唱とその意義


日本海学推進グループ
(富山県企画部日本海政策課)

本文章は、『日本海学の新世紀』 にも掲載されています。
→『日本海学の新世紀』 角川書店(p7~17)

1 「日本海学」とは

「日本海学」は、環日本海地域全体を、日本海を共有する一つのまとまりのある圏域としてとらえ、日本海に視座をおいて、過去、現在、未来にわたる環日本海地域の人間と自然のかかわり、地域間の人間と人間とのかかわりを、総合学として学際的に研究しようとするものである。

2 「日本海学」の提唱の意義

 世界の科学者や経済学者などで組織するローマクラブ(→注1)が、「成長の限界」と題する報告を一九七二年に発表した。そこで描き出された地球の将来予測は、「現在の人口、汚染、工業化、食料生産、資源消費の傾向がこのまま続けば、百年以内に地球は成長の限界に達して、人口や工業生産の制御不能な崩壊が起きる」というものであった。また、これを回避するには、「人口、生態系、経済を安定させて地球的な均衡をつくりあげ、持続可能な社会をつくるしかない」という成長の抑制を結論づけている。
 一九七二年の時点で予測した西暦二〇〇〇年までのシナリオはほぼ的を射ていたことがすでに証明され、現在、人類活動にともなう地球へのさまざまな負荷の幾何級数的な増大が予測どおり、現実問題になってきている。この報告書は単なる警告にとどまるものではなく、悲痛な叫びとして、とりかえしのつかない破滅的事態の現実的到来というものを深刻に感じさせるものとなっている。
 このことは、「人類とは、文明とは、生命とは、そして地球とは何か」といったそれぞれの存在についての根源的な問いかけを私たちにもたらしている。
 イギリスの生理学者ホルデーン(→注2)のいう「正常な特異性の積極的維持」が生命の本質であるとすれば、地球もひとつの生命体としてとらえられる。ただ、人類が地球の「正常な特異性の積極的維持」にとって害のある存在になったときには、人類が滅亡の道をたどらされることも多分にありうるとの危機感を抱かざるをえない。生物は地球を変え、地球は生物を変えるからである。いまこそ、人類の英知としての諸科学を結集して、地球と人類との新たな動的平衡を保ちうる持続的成長、そして共存の道を見出すことが求められている。
 現代では、あらゆる問題が地球規模でひろがっているので、国際的協力問係のもとで取り組まなければならない。実際に国連環境計画(UNEP、→注3)などの活動を通して地球環境問題への取組などがすでに積極的に行われている。ローマクラブの指摘に始まった地球の未来への警告は、最大の脅威がアジアの人口爆発、エネルギー消費増大と水や食料資源の不足、工業化が誘引する環境問題などにあることをさとしている。このことは、ほぼ異論なく、すべての研究グループによって認められ、対応策を練り上げることの重要性が指摘されている。
それでは、このような二十一世紀の国際社会のなかで日本が果たすべき役割はどのようなものであろうか。否応なく、日本は国際社会のなかでの使命を求められ、豊かな物質文明先進国としてその使命を問われている。国際社会が期待する日本の役割は何なのか。このことを、「日本海」に光をあてて見つめ直していきたい。

3 環日本海地域における各国間協力と地方の主体性発揮のいぶき

 昨年十二月、北西太平洋地域海行動計画(NOWPAP、→注4)の参加国である日本、中国、韓国、ロシアによる政府間会合で、同行動計画の本部事務局(RCU、→注5)の地域内設置が討議された結果、日本と韓国にそれぞれ機能分担して共同設置されることになり、日本における設置場所は、富山県富山市とされたところである。
 NOWPAPとは、国連環境計画(UNEP)の提唱による「地域海行動計画」に対応するものである。ここでいう地域海とは、大海洋と違って、閉鎖性の強い小海洋のことで、海水の循環が小さいので汚染にさらされやすい日本海のような海をさす。UNEPは、「閉鎖性海域の沿岸国」が海洋環境保全、海洋汚染緊急時対応などに一定のルールをつくることを提案しており、日本海と黄海を対象とするNOWPAPのほか、地中海、カリブ海、黒海等、十四海域で地域海行動計画が策定され、活発に取組まれている。
 RCUの設置場所とされた富山県は、中国、朝鮮半島、ロシアのいずれにも近く、東京、大阪、名古屋の三大都市圈ともほぼ等距離に位置し、さらに日本海を介して、中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどの対岸諸国に面している。また、その地形は、水深千メートル級の深海から三千メートル級の北アルプスまで、高度差四千メートル以上におよぶ海と山が融合したダイナミックな景観を形づくり、山と川と深海を結ぶ精緻な水の循環システムが存在する。
 そこに棲息する生物はじつに多様な生態をもち、環境の微妙な変化の生態系へのレスポンス(反応や反響)はじつに敏感である。このために、富山県は日本海をはさんで越境するアジアの環境問題の超感度センサーというべき存在となっている。それは、富山とその周辺は日本の他地域ではみられない特異で多様な生態系があるからである。そのために、今日急速に成長しつつあるアジア諸国起源の環境汚染や、そこと日本の間をつなぐ気象の変化をモニターする絶好の観測場にもなりうるという地理的な特性をもっている。
 このようなことから、富山県は、環境庁(現在の環境省)所管の財団法人「環日本海環境協カセンター」をいち早く設立し、環日本海の海洋環境保全を推進してきたところであり、このセンターは、一昨年NOWPAPの地域活動センター(RAC、→注6)に指定されている。
 また、日本、中国、モンゴル、韓国、ロシアの自治体で構成する「北東アジア地域自治体連合」(→注7)の事務局県として、幅広い交流事業を進めるなど、日本海を「平和と発展の海」とすべく取り組んできた歴史をもっている。さらに環日本海自治体の中で唯一「日本海政策課」という政策立案担当課を設置するなど、環日本海施策を県政の最重要課題と位置づけ、多角的な施策を積極的に展開してきた。
 富山県としては、こうした従来からの積極的な取組を礎(いしずえ)として、それをさらに発展させ、二十一世紀の人類社会が置かれた試練を見すえて、アジアやひいては地球全体の枠の中で二十一世紀の課題を追究し、日本や地域が果たすべき必要な行動計画を提言したいと願っている。「日本海学」はこうした願いから世に問うものである。

4 「日本海学」の構成

 日本海学は、具体的には次の四つの分野から構成される。

① 環日本海の自然環境

 誕生から現在までの日本海および環日本海地域の自然環境変動の歴史をさまざまな手法を用いて解析し、変動の周期性から、近未来の変動予測を行う。

② 環日本海地域の交流

 日本海を介した環日本海地域の交流を生み出した要因や交流の形態を、歴史を踏まえて地球的規模の観点から明らかにする。

③ 環日本海の文化

 環日本海地域の民族が環日本海の自然環境や交流の影響を受けながらつくりだし、受け継いできた生活文化の特色や日本海とのかかわりのなかで生まれた海の思想や信仰を明らかにする。

④ 環日本海の危機と共生

 閉鎖海域としての日本海の環境保全のための方策や国際協力、未来の環日本海地域交流の可能性をさぐり、人間と自然との共生、環日本海地域の共生を提示する。
 以上四つの分野について、それぞれが相互に関連しているという認識のもと、学際的に調査研究を進める。

5 「日本海学」を考える視点

 日本海学を進めるにあたっては、循環、共生、日本海の三つを基本的な視点としたい。

① 循環  環日本海地域が周期性をもった地球全体の自然環境システムの中で存在しているという視点。

 宇宙飛行士毛利衛(もうりまもる)さんを乗せたエンデバーから送られてきた地球の映像は、漆黒の宇宙の中に青くはっきりと浮かぶオアシスのごとき姿であり、その映像は私たちに敬虔(けいけん)な思いを抱かせる。地球は、生命の存在しない暗黒の宇宙に浮かぶ小さなオアシスなのだ。二十一世紀は、宇宙から地球を客観的に見ることによって共存の思いが想起される世紀なのである。
 また、地球が青と白の縞(しま)におおわれて輝いているのは、地球が水の惑星であり、青い大海と小さな水滴や氷晶からなる白い雲が表層を漂いながらおおっているからである。しかも大気圏は、表層わずか十キロ余りにすぎない、きわめて薄い空間なのである。この薄い空間を占めるのが激しくあらゆる方向に運動する水の循環システムであり、大気側から見ると気候システムでもある。生命はこの超薄膜の中で激しく変化するシステムの一部なのである。これが地表に住む私たちの生活を支えている。自然は、水と物質との循環システムとして成り立っているのであり、私たちはこの自然と調和して生きている。
 現在、人口爆発、地球温暖化、森林破壊、環境汚染などのグローバル(全地球的)な問題に私たちは直面している。これらにどのように対応していくのか。これらが大きな要因となって文明の盛衰を繰り返してきた過去の教訓をふまえ、さしせまった近未来の問題の対処には、人間の英知を結集しなければならない。
 文明の歴史は、人の英知を超えたところで、自然の脅威に左右されてきたことを忘れてはならない。一方では、そのメカニズム、つまり地球全体の循環システムのなかでの生命と人間の役割を正確に理解して、循環のなかでしか生きることができない宿命を忘れてはならない。

② 共生  環日本海地域における人間と自然との共生、日本海を共有する地域間における人間と人間との共生の視点。

 平成六年(一九九四)度に、富山県が国土地理院の承認を得て作成した「環日本海沿岸諸国図」、いわゆる「逆さ地図」をじっくり見てみたい。この地図を見ていると、日本海が琵琶湖のような湖に見える。また、日本列島と大陸がそれぞれつながり、東アジアが日本海をはさんで一つの連環をなし、国という概念があいまいなものに見えてくる。どちらかというと、日本海とのかかわりをもった地域という印象のほうが強い。
 しかしながら、私たちはこの地域のことをどれほど知っているだろうか。太平洋側が表であるかのような、これまで歴史教科書などで植えつけられた先入観に支配されている自分たちに気づかされる。すなわち、先入観といったもので見あやまっているもの、かすんで見えないもの、知らないものが多すぎるのではないか。環日本海の問題は専門家の世界のこととして、ひとごとのようにとらえられていないだろうか。地域のことをよく知り、違っているもの、よく似ているものをはっきりと認識し、地域の人どうしが相手をよく知り、認めあうことが必要ではないか。
 日本海および環日本海地域のことを正しく知り、正しく理解したときには、私たちは、時間的関係においても社会的関係においても、さまざまなつながりの中で生きていくこと、そしてすべての生命体との共生のたいせつさを真に解ることができる。自然と人間は、けっして対立する概念としてとらえられるべきものではなく、相互の関係のもとでとらえられるべきものであり、豊かな環日本海時代を切り開き、地域・地球を健全に子孫に受け継いでいくためにも、共生の視点はきわめて重要である。
 環日本海地域には、政治体制や経済の発展段階の違いに加えて、宗教、民族、文化の違いなどがあって、EU(European Union=欧州連合)のような一つの圏域としてまとまったものになっていないし、また、なりがたい現実がある。しかし、日本海を心臓とし、環日本海地域のそれぞれが臓器として有機的に機能する生命体として、いきいきとした気を活性化させる東洋的視点が必要である。そのためには日本海および環日本海地域について、それぞれ共有できる知識のナショナル・ミニマムを蓄積し、地域のアイデンティティ(主体性)を形成していく粘り強い努力が必要である。

③ 日本海  環日本海地域において、日本海がはたしてきた役割、意義を問いなおし、これからの日本海との関係を見つめる視点。

 日本海は大陸の周縁に生成した縁海(えんかい)であり、小海洋である。太平洋やインド洋のような大海ではない。巨大海洋ではないので、航海術や造船技術が飛躍的に発達する前から、局辺国のさまざまな民族がこの海に乗り出し、その交流を通して多様な文化圏を生み出してきた。この交流を通して東アジアの歴史はつくられてきたといっても過言ではないだろう。日本海文化のほとんどは、日本海を通した交流の歴史にいろどられているといってもよいのではないだろうか。
 ところが、これまでの歴史観や文明観はとかく陸に視点をおいて論議され、また、過去のある時点での陸域のそれぞれについて、グローバルに語られることは少なく、それぞれの陸域についてが時系列的に語られてきたように思われる。その身近な例の一つとして高等学校の教科書をみても、海についての記述、海がはたした歴史における役割の説明はきわめて少ない。海を舞台としたネットワークのもとで相互に深くかかわっていたはずの人間の姿が浮かび上がってこないのである。これは、歴史や文明を総合的に見つめる認識が欠如していたためであろう。
 実際、日本海に面した地域に住む私たちは、はたして日本海のことをどこまで知っているだろうか。日本海について自問したとき、どこまで日本海のことについて描ききれるだろうか。そして、日本海とのかかわりの有様を、歴史であれ、環境であれ、暮らしであれ、自らにかかわる問題として考えてみたことがあるだろうか。
 たとえば一例として、エイズ(→注8)が死に至る病として人類の生存を脅かしているが、海にエイズを克服する微生物が存在しないのであろうか。深層水(→注9)はどのような可能性を秘めているだろうか。知らないこと、まだ明らかになっていないことが、じつに多いのである。日本海との関係を見つめていくことが、ますます重要になっていくであろう。
 日本海、そして海がもつさまざまな特質に視座をすえて、人間がからんださまざまな事象を多角的に見ることが、いま強く求められている。

6 「日本海学」のめざすもの

 日本海学は、環日本海地域および日本海を一つの循環・共生体系としてとらえて、地域・地球の自然環境と人間とのかかわり、地域間の人間と人間とのかかわりの歴史の中で繰り返されてきた循環・共生システムに学んでいく。そして、将来において起こりうるさまざまな問題を予測し、これに対処する備えを用意することにより、地域全体の危機を回避し、ひいては健全な地域・地球を子孫に引き継いでいくことをめざすものである。
 このように「日本海学」は、地球的規模で総合的に地域の問題を考える切り口を提示することを意図している。
 また、共生の価値観への転換を図ることにより、現代社会に蔓延(まんえん)する孤独感を払拭するとともに、直線的発展の文明観から循環的な文明観への転換を図る。さらに、国家中心の考え方から地域中心の考え方への転換も図り、地域のアイデンティティの確立をめざすなど、二十一世紀における人間の生き方に対する問いかけも視野に入れるものである。

注1 ローマクラブは科学者や経済学者のほかに財界人なども構成メンバーに加わり、国際的な研究や提言を行っているグループ。人類の生存にかかわるような問題をとりあげて研究している。

注2 ホルデーン(Haldane, John Burden 一八九二~一九六四年)。イギリスのオックスフォード生まれ。遺伝現象や遺伝現象と進化の関係を数理的に研究。酵素が起こす反応が熱力学的によく知られている法則に従うことを立証。また、潜水中の生理についての研究業績は学界の評価が高い。最大の功績は数理的遺伝学の道を開いたこと。晩年はインドで研究生活を続けながら暮らした。

注3 国連環境計画=United Nations Environment Programme

注4 北西太平洋地域海行動計画=Northwest Pacific Action Plan  国運環境計画(UNEP)の提唱に基づき、日本海および黄海の環境保全と資源管理を目的として、日本、韓国、中国、ロシアの四か国により取り組まれている。

注5 北西太平洋地域海行動計画本部事務局=Regional Coordinating Unit  NOWPAPの各プロジェクトの調整、各種会合の開催、メンバー国および他の国際機関との連絡調整などを主な業務とし、現在は、UNEP本部(ナイロビ)が、RCUの業務を代行している。

注6 北西太平洋地域海行動計画地域活動センター=Regional Activity Center

注7 北東アジア地域自治体連合=北東アジア地域全体の平和と発展を目指して、日本海を取り巻く広域自治体が協力し、平成八年に設立された。現在、五か国三十六の自治体が参加している。

注8 エイズ(AIDS=acquired immune deficiency syndrome)。ヒト免疫不全ウイルス (HIV)によっておこる疾患。免疫を受けもつ細胞のリンパ球に感染し、免疫機能が低下する。潜伏期間は数年。感染者の十~三十パーセントが発病。発熱、体重減少、疲れやすさ、下痢、貧血などの症状で始まり、種々の感染症にかかったり、悪性腫瘍(しゅよう)を起こす。発病者の五十パーセントが数年以内に死亡する。

注9 深層水とは海洋深層水のこと。海面から二百メートルより深いところにある海水で、太陽光が届かないために、海藻やプランクトンの光合成が行われず、窒素やリンなどの栄養分にめぐまれている。この水を海面近くまでポンプアップして、栄養分をえさにするプランクトンを増やし、それを食べる小魚を集め、さらに大きな魚が集まってくる食物連鎖を利用して漁場づくりが考えられている。また、深層水は表層の海水のように汚染物質をほとんど含んでいないので、塩分をとりのぞくだけできれいな水が得られる。水を必要とする各種の食品産業や化粧品にも使われ始めている。