出版等事業:本関連
日本海学の提唱とこれからの歩み
日本海学推進グループ
(富山県生活環境部国際・日本海政策課)
本文章は、『日本海学の新世紀2 環流する文化と美』 にも掲載されています。
→『日本海学の新世紀2 環流する文化と美』角川書店(p7~15)
1 問題の所在
世界の科学者や経済学者などで組織するローマクラブ(→注1)が、「成長の限界」と題する報告を発表してからすでに約三〇年が経とうとしている。「現在の人口、汚染、工業化、食料生産、資源消費の傾向がこのまま続けば、一〇〇年以内に地球は成長の限界に達して、人口や工業生産の制御不能な崩壊が起きる」と地球の将来を予測し、これを回避するには「人口、生態系、経済を安定させて地球的な均衡をつくりあげ、持続可能な社会をつくるしかない」という、成長の抑制を結論づけている。
二一世紀に入った今日、残念ながらローマクラブの予測は、ほぼ的を射ていたことが証明され、現在、人類活動にともなう地球へのさまざまな負荷の幾何級数的な増大が現実のものとなっている。そして、世界の人口の約半分を占めるアジアがまさに火薬庫であることを認識しなければならない。
現在見直しを迫られているのは、特に産業革命以降顕著になった資源浪費型ともいえる自然との対決型の工業化パラダイムである。産業革命以降、いわば西洋近代のパラダイムの下で工業化を進め、米国フォードの大量生産方式を代表とする、大量に資源を浪費する形の人間の営みが地球を覆い尽くすにいたった。人口が爆発的に増加し、その人口が農村を捨て都市圈に集中する形での一極集中が顕著になり、さまざまな問題を引き起こしている。化石燃料の枯渇、森林の破壊と砂漠化の進行など、地球環境の破壊の問題が非常に深刻になり、国境を越えた海洋汚染、大気汚染に加え、地球温暖化や環境ホルモン(→注2)の問題が発生し、地球における人間を含めた生物の生存可能性自体の危機が顕著になっているのである。そして、この危機は世界の人口の約半分を占めるアジアにおいて最も深刻なのである。二一世紀の火薬庫といわれるアジアに暮らす我々にとって、この問題にどう対処すべきか。
2 逆さ地図からの発想
富山県が六年前に作成したいわゆる「逆さ地図」というものがある。これによれば日本海が琵琶湖のような湖にみえる。狭い対馬海峡、宗谷海峡、間宮海峡により半分閉ざされた海を巡って、日本列島、大陸、朝鮮半島が一体的なものにみえる。ここから日本が大陸から切り離された島国だという見方ではなく、地球において北東アジア、海を挟んだ環日本海という圈誠に属するということを視覚的にイメージすることが可能となる。
地球規模で生じている現在の危機に我々が対処していくには、とかく日本だけは特別であり、世界の動きとは無関係であるという発想に陥りがちな従来の島国日本という見方を変え、日本は、地球という球体において、日本海を取り囲んだ環日本海地域、北東アジアという領域に位置しているという認識が極めて大事となろう。
3 日本海学とは
「日本海学」は、逆さ地図が提供する柔軟な発想に支えられて、環日本海交流の中央拠点づくりを推進する富山の地で産声をあげた。
「日本海学」とは、環日本海地域全休を、日本海を共有する一つのまとまりのある圏域としてとらえ、日本海に視座をおいて、過去、現在、未来にわたる環日本海地域の人間と自然のかかわり、地域間の人間と人間とのかかわりを、「循環」と「共生」と「海」の視点を明確にしつつ、総合学として学際的に研究しようとするものである。
具体的には「環日本海の自然環境」、「環日本海地域の交流」、「環日本海の文化」、「環日本海の危機と共生」という相互に関連した四つの分野からなる。
〈構成〉
① 環日本海の自然環境
誕生から現在までの日本海及び環日本海地域の自然環境変動の歴史をさまざまな手法を用いて解析し、変動の周期性から、近未来の変動予測を行う。
② 環日本海地域の交流
日本海を介した環日本海地域の交流を生み出した要因や交流の形態を、歴史を踏まえて地球規模の観点から明らかにする。
③ 環日本海の文化
環日本海地域の民族が環日本海の自然環境や交流の影響を受けながらつくりだし、受け継いできた生活文化の特色や日本海とのかかわりの中で生まれた海と森の思想や信仰を明らかにする。
④ 環日本海の危機と共生
閉鎖海域としての日本海の環境保全のための方策や国際協力、未来の環日本海地域の可能性をさぐり、人間と自然との共生、環日本海地域の共生を提示する。
〈視点〉
① 循環
環日本海地域が周期性をもった地球全体の自然循環システムの中で存在しているという視点。
② 共生
環日本海地域における人間と自然との共生、日本海を共有する地域間における人間と人間との共生の視点。
③ 日本海
環日本海地域において、日本海が果たしてきた役割、意義を問い直し、これからの日本海との関係をみつめる視点。
4 日本海学が浮き彫りにしつつある課題-環日本海に視点を置く必要性
日本海学が提起している「循環」と「共生」そして「海」の視点に基づいて、環日本海地域が抱える地球規模の課題の本質と対処の方向の解明をめざしたい。ここでは、次の三点を例として挙げてみたい。
(一) 地球温暖化
地球温暖化については、IPCC(→注3)が今後一〇〇年で最高五・八度の気温上昇がありうるとの報告を出しているが、日本にとって地球温暖化はどのような意味を持つのか。これを解明するには、地球システムの中での環日本海、北東アジアという視点でのアプローチが必須となる。
例えば北東アジア、環日本海の大気循環システムを極めて大雑把に地球をやかんにたとえて説明する方法がある。赤道がいねばコンロに暖められるやかんの底であり、北極の極気団がやかんの蓋(ふた)にあたる。水が沸騰するとやかんの蓋が振動するように、北極の極気団も振動している。これが最近注目されている北極振動という現象で、冬には北極の冷気が大陸をわたって日本の方向にもたらされる。ここで特徴的なのは、零下五〇度程度の極気流が、対馬暖流で温かい日本海によって零下三度程度にまで暖められ、その過程で吸収した水分が雪となって日本海側の各地にもたらされるということである。春に徐々に融けていく積雪の貯水機能によって、日本海側のみならず、利根川水系をはじめとした太平洋側の水も支えられている。
温暖化は雪をもたらすいわば日本海に支えられた気象システムにいかなる影響をもたらすのか。現在すでに北陸を中心とする日本海側の積雲量の減少が顕著であるが、温暖化によって仮に雲が降らなくなったら、日本の水供給システムが崩れることになる。
また、温暖化によって海面が数メートル規模で今後上昇する可能性がある。実際、縄文海進(かいしん)と呼ばれる縄文時代の温暖化局面では海面が現在より数十メートル上昇していたのである。山間部から平野部に移り住んでいる現在の人間の生活のあり方は今後維持できるかどうかが問われようとしている。
このような観点に基づき、ダイレクトに環日本海、北東アジアに着目した温暖化の研究は十分なされているとは言い難い。地球の危機が叫ばれる中で、我々のお膝元である環日本海、北東アジアに何か起きるかを追究する視点が求められているといえよう。
(二) 海洋研究
最近日本海についての研究は徐々に深まってきつつあるが、日本海の研究を進めることが、海洋大循環コンベアベルトと呼ばれる世界の大海洋循環を解明するために欠かせないとの指摘がなされている。とかく研究者の関心はこれまで太平洋側に向きがちであり、日本海側に海洋研究に関する国家レベルの拠点は置かれていないのが現状である。しかしながら、日本海のような閉鎖性海域における、一〇〇年から三〇〇年といわれる深層水(→注4)の循環メカニズム、そしてそこにおける海洋汚染の問題を明らかにできれば、現在まだまだ解明が進んでいない地球規模の海水の大循環メカニズム、またそこで起きる汚染の問題を類推できるのである。日本海に目を向けることがいかに重要であるかを示す一例といえよう。
(三) 環日本海の文化
環日本海、北東アジアを文化面から捉えるとどうであろうか。まず、環日本海、北東アジアは、森林と豊かな自然環境が残っている地域であるとの指摘がある。これに対して、現在の市場経済を支えている西欧近代化、産業化の歴史は、ある意味で環境と自然を破壊してきた歴史、つまり森を切り倒してきた歴史といえる。その基本にあるヒューマニズムとは、実は人間中心主義であって、つきつめれば人の命は何よりも尊く、他の生物の命はどうでもいいということになる。またこの人間中心主義は、西欧の場合は、ユダヤ教、キリスト教という一神教と結びついている。一神教のもとで、自然を征服する、自然というものを人間がコントロールしていくのだという発想で近代文明は展開してきたのであり、その結果、「成長の限界」という状況に立ち至っているのである。したがって、そういう西欧近代のヒューマニズム、あるいは人間中心主義というものを見直していかなければならない時代に入っているのである。
森が太古の昔から残っている環日本海は、森の文明というべきものを主張しうる地域ではないか。すなわち、自然との関係において、一神教的ないねば神と一対一で対峙した人間が自然を克服していく、地球を開拓していくというものではなく、むしろ自然を畏怖する、自然そのものが神であるといった自然観を太古の昔から備えてきた。そしていわば多神数的に、いろいろなものを受け入れる柔構造の精神構造を我々にもたらしてきた地域といえる。実はこの地域には、アイヌをはじめとして、極東ロシアのアムール川流域や中国東北地方などに多くの少数民族が存在しているのであり、少数民族の宝庫と呼べる地域なのである。これらの自然を神として畏怖する自然観を共通とする少数民族が、森においてすみ分けをしてきたのが環日本海、北東アジアだという見方が可能ではないか。二一世紀ヽの地球で文明の衝突を回避し、民族間の平和の実現を可能にするとともに、地球環境と共生するライフスタイルを実現するための新たなパラダイムのヒントが環日本海の民族の文化には存在しているのである。
5 新たなパラダイムの創造に向けて
日本海学は、循環・共生・海の三つの視点を明確に打ち出しつつ、総合学として幅広くいろいろな角度から学際的に問題を考えようということを提唱している。それは、現在の地球が抱える問題の根元が、陸の論理が優先した産業革命以降の工業化を中心とした人間の営みそのものにあり、地球の存在可能性、生物の生存可能性に危機を生じさせているということである以上、いかに人間の営みのパラダイムを循環と共生、そして海の視点に立って変えることができるかが問題なのである。行政も縦割りの問題があり、学問分野も細分化されていく方向にあるが、いわば人間の営みの総体を、自然科学、人文科学、社会科学の観点から学際的に捉え直して、地球と共生できる新しい営みをつくれるのか、ということが今まさに求められている。日本海学はそのフレームワークを提示するものである。
そして、日本海学が森と歴史的遺産が現存する環日本海から創出することをめざす二一世紀の新たなパラダイムとは、直線的に発展するという文明観から循環的文明観へ、国家中心の考え方から地域中心の考え方へ、人口の一極集中から地域分散・すみ分けへの転換、そして森の文明の創造と共生の価値観の創出を図ることを可能とするものであろう。すなわち、日本海学を行政、学術、民間などさまざまな立場から推進し、それぞれの自治体が環日本海、北東アジアという枠組みにおいて、地域のアイデンティティーの確立を図ることによってこそ、これまでの東京中心の流れに対し、真の地方分権によるパラダイムの転換が可能になるであろう。そのために、知見を有する多くの機関と連携しながら、人類共通の普遍的な探題に対して、解決の方向を見出すという基本的な考え方により、新たな文明創造運動としての日本海学の具体化を進めていきたいと考えている。
平成一三年三月三一日に富山市で、同年一二月二二日には大阪市で「日本海学シンポジウム」が開催された。また、同年三月に、シリーズ日本海学『日本海学の新世紀』創刊号が発刊され、本号の発刊に至っている。
このように、「日本海学」は、二一世紀の新たなパラダイムの創出に向けて着実にその一歩を踏み出したところである。
折しも、平成一三年七月一二日に富山市内で開催された北東アジア地域自治体連合(現在、五か国三六自治体が参加)一般交流分科委員会において、地球志向の地域学である「日本海学」が紹介され、北東アジア地域全休を研究する「日本海学」を支援する方向で合意された。今後、日本国内のみならず北東アジア地域での「日本海学」の進展が期待されるところである。
(注記) 日本海の呼称について議論があることを踏まえ、「日本海学」を国際的に共有するうえで、環日本海地域の人々が違和感なく呼び合える名称が見出されることを願っている。
注1 ローマクラブ 財界人、経済学者、科学者などで構成される国際的な政策提言グループ。一九七八年に発表された『成長の限界』は、人口、工業化、資源消費などの傾向がこのままつづけば百年後には地球は成長の限界に達し、制御不能となると警告した。
注2 環境ホルモン 体の器官の細胞で作られ、器官相互の情報の伝達の役割をはたす微量の物質をホルモンというが、同じ作用をする人為的に作られた化学物質を環境ホルモン(内分泌撹乱化学物質)という。これらの環境ホルモン(最悪の例としてダイオキシンなどがあげられる)が人類や生物全般に与える影響は甚大で、九〇年代に入ってその研究と真剣な対応がはじまった。
注3 IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Changeの略)気候変動に関する政府間パネル 一九八八年一一月にジュネーブで第一回会議が開かれ、地球温暖化を含む気候変動に関する国際的取組みがはじまった。九〇年に第一回の、九五年に第二回の報告書が作成され、九七年の地球温暖化防止京都会議に発展していった。
注4 深層水 海洋深層水のこと。海面から二百メートルより深いところにある海水で、太陽光が届かないために、海藻やプランクトンの光合成が行われず、窒素やリンなどの栄養分にめぐまれている。この水を海面近くまでポンプアップして、栄養分をえさにするプランクトンを増やし、それを食べる小魚を集め、さらに大きな魚が集まってくる食物連鎖を利用して漁場づくりが考えられている。また、深層水は表層の海水のように汚染物質をほとんど含んでいないので、塩分をとりのぞくだけできれいな水が得られる。水を必要とする各種の食品産業や化粧品にも使われ始めている。