出版等事業:本関連
日本海学の提唱について
富山県 国際・日本海政策謀
本文章は、『日本海学の新世紀3 循環する海と森』 にも掲載されています。
→『日本海学の新世紀3 循環する海と森』角川書店(p11~19)
1 はじめに
東西冷戦構造の終焉に伴い、北東アジア・環日本海地域においては、経済、文化、スポーツなどあらゆる分野での交流が活発化してきています。いわゆる大規模プロジェクト主導型の開発志向の「環日本海経済圏」構想は、思うように進展していないのが現状でありますが、特に友好提携関係などをベースとした自治体主導の交流の蓄積は著しく、環日本海地域にはさまざまな交流のネットワークが張り巡らされてきているといえます。
一方で、二一世紀に入った今日、約三〇年前に出されたローマクラブの「成長の限界」の予測は、ほぼ的を射ていたことが証明されました。化石燃料の枯渇、森林の破壊と砂漠化の進行など、地球環境の破壊の問題が深刻になり、国境を越えた海洋汚染、大気汚染に加え、地球温暖化や環境ホルモンの問題が発生し、地球における人間を含めた生物の生存可能性自体の危機が顕著になっています。この危機は世界の人目の約半分を占めるアジアにおいて最も深刻であると思われます。
2 逆さ地図からの発想
富山県が平成六年に作成したいわゆる「逆さ地図」というものがあります。これによれば日本海が大きな湖のように見えます。狭い対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡以外は陸地に囲まれた、湖のような日本海を巡って、大陸、朝鮮半島、日本列島が一体的なものに見えてきます。ここから日本が大陸から切り離された島国という見方ではなく、地球において北東アジア、海を挟んだ環日本海という領域に属するということを視覚的にイメージすることができます。
地球規模で生じている現在の危機に我々が対処していくには、改めて、島国日本という従来の見方を変え、日本が置かれている地球規模あるいはアジアという地域においてどのような役割と発展の可能性があるかを柔軟に考える必要があります。
3 「日本海学」が目指すもの
(一)二一世紀における持続的発展
二一世紀の環日本海地域における潜在的な発展の可能性は大きいと思われます。中国の世界最大の人口、ロシアの天然資源、日本や韓国の先端的な技術力と資本力があるからです。一方で、急速な経済発展がもたらす先述のような危機が生じる可能性があります。
富山県では、環日本海地域の二一世紀における持続的発展を可能とするためには、環日本海地域が抱える問題をトータルに捉え直し、今後のあり方を探っていくことが重要であるとの認識の下、「日本海学」の確立を提唱しています。「日本海学」は、逆さ地図が提供する柔軟な発想に支えられて、環日本海交流の中央拠点づくりを推進する富山の地で産声をあげました。そのフレームワークは、伊東俊太郎麗澤大学教授(東京大学名誉教授)を代表とする人文、社会、自然系の研究者からなる日本海学推進会議(日本海学推進機構の母体)によって練っていただいたものです。
「日本海学」は、環日本海地域全体を、日本海を共有する一つのまとまりのある圈域としてとらえ、日本海に視座をおいて、過去、現在、未来にわたる環日本海地域の人間と自然のかかわり、地域間の人間と人間のかかわりを、「循環」と「共生」と「海」の視点を明確にしつつ、総合学として学際的に研究しようとするものであります。
(二)「日本海学」の縮図としての富山県からの発信
以下のように、環日本海地域のモデルともいえる森と水の豊かな富山県から「日本海学」を発信し、環日本海地域ひいては地球と共生できる新しい営みの方向を提示していきます。
① 水深一〇〇〇メートルの深海から三〇〇〇メートル級の北アルプスまで、高度差四〇〇〇メートル以上に及ぶ山、川、海を結ぶ水の循環システム
② 豊かな森をはじめとする自然の恵みを受けて多様な生物が生息する共生のシステム
③ 日本海固有水(深層水)と対馬暖流がおりなす豊饒の海である日本海のシステム
(三)具体的な研究分野
①環日本海の自然環境
誕生から現在までの日本海および環日本海地域の自然環境変動の歴史をさまざまな手法を用いて解析し、変動の周期性から、近未来の変動予測を行います。
②環日本海地域の交流
日本海を介した環日本海地域の交流を生み出した要因や交流の形態を、歴史を踏まえて地球規模の観点から、明らかにしていきます。
③環日本海の文化
環日本海地域の民族が環日本海の自然環境や交流の影響を受けながら創り出し、受け継いできた生活文化の特色や日本海とのかかわりの中で生まれた海と森の思想や信仰を明らかにしていきます。
④環日本海の危機と共生
半閉鎖海域である日本海の環境保全のための方策や国際協力、未来の環日本海地域の可能性を探り、人間と自然との共生、環日本海地域の共生を提示していきます。
(四)視点
>①循環
環日本海地域が周期性をもった地球全体の自然環境システムの中で存在しているという視点。
②共生
環日本海地域における人間と自然との共生、日本海を共有する地域間における人間と人間との共生の視点。
③日本海
環日本海地域において、日本海が果たしてきた役割、意義を問い直し、これからの日本海との関係を見つめる視点。
4 日本海学が浮き彫りにしつつある課題-環日本海に視点を置く必要性
(一)地球温暖化
地球温暖化については、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が今後一〇〇年で最高五・八度の気温上昇がありうるとの報告を出していますが、日本にとって地球温暖化はどのような影響をもつのでしょうか。現在すでに北陸を中心に日本海側の積雪量の減少が顕著でありますが、そもそも日本の雪は、零下三度程度にまで暖められ、その過程で吸収した水分が雪となって日本海側の各地にもたらされているのです。春に徐々に融けていく積雪のいわゆる貯水機能によって、日本海側のみならず、利根川水系をはじめとした太平洋側の水が支えられています。温暖化は、雪をもたらすいわば日本海に支えられた気象システムにいかなる影響をもたらすのか、温暖化によって仮に雪が降らなくなったら、日本の水供給システムが崩れることになります。
このような観点から、ダイレクトに環日本海、北東アジアに着目した温暖化の研究は十分なされているとは言い難く、地球の危機が叫ばれるなかで、我々のお膝元である環日本海、北東アジアに何か起きるかを追究する視点が求められています。
(二)海洋研究
最近、日本海についての研究は徐々に深まってきつつありますが、日本海の研究を進めることが、海洋大循環コンベアベルトとよばれる世界の大海洋循環を解明するために欠かせないとの指摘がなされています。とかく研究者の関心は太平洋側に向きがちであり、日本海側の海洋研究に関する国家レベルの拠点は置かれていないのが現状です。しかしながら、日本海のような閉鎖性海域における、一〇〇年から三〇〇年といわれる深層水の循環メカニズム、そして、そこにおける海洋汚染の問題を明らかにできれば、現在、まだまだ解明が進んでいない地球規模の海水の大循環メカニズムを類推できます。日本海に目を向けることがいかに重要であるかを示す一例といえるのではないでしょうか。
(三)環日本海の文化
環日本海、北東アジアの特徴として、豊かな森と水に代表される豊かな自然環境が残っている地域であるとの指摘がなされています。森が太古の昔から残っている環日本海は、森の文明というべきものを主張しうる地域ではないでしょうか。すなわち、自然との関係において、一神教的ないわば神と一対一で対峙した人間が自然を克服し、地球を開拓していくというものではなく、むしろ自然を畏怖する、自然そのものが神であるといった自然観を太古の昔から備えてきました。そしていわば多神数的に、いろいろなものを受け入れる柔構造の精神構造を我々にもたらしてきた地域といえます。
実はこの地域には、アイヌをはじめとして、極東ロシアのアムール川流域や中国東北地方などに多くの少数民族が存在しているのであり、少数民族の宝庫とよべる地域です。これら自然を神として畏怖する自然観を共通する少数民族が森においてすみ分けをしてきたのが環日本海、北東アジアだという見方が可能ではないでしょうか。二一世紀の地球で文明の衝突を回避し、民族間の平和を可能とするとともに、地球環境と共生するライフスタイルを実現するための新たなパラダイムのヒントが環日本海には存在しているのです。
5 新たなパラダイムの創造に向けて
日本海学は、循環と共生のシステムを豊かな森と水に恵まれた環日本海をベースに、幅広くいろいろな角度から学際的に問題を考えようということを提唱しています。それは、現在の地球が抱える問題の根源が、産業革命以降の工業化を中心とした人間の営みそのものにあり、生物の生存可能性に危機を生じさせているということである以上、いかに人間の営みのパラダイムを循環と共生、そして海の視点に立って、変えることができるかが問題なのであります。行政の方も縦割りの問題がありますし、学問の分野も非常に細分化されていく方向にありますが、自然科学、人文科学、社会科学の観点からいわば人間の営みの総体を捉え直して、いかに新しい営み、地球と共生できる営みをつくれるのか、こういうことが今まさに求められます。日本海学はそれを考えるフレームワークを提示するものです。
そして、日本海学が豊かな森と水に恵まれた環日本海から創出することを目指す二一世紀の新たなパラダイムとは、以下のようなものであろうと考えております。
① 地域全体の危機を回避する観点から、持続的な発展を可能とする地域を将来世代へと継承していくこと。
② 総合的に環日本海の抱える問題を捉えることにより、共生の価値観への転換を図り、直線的な発展の文明観から循環的な文明観への転換を目指すこと。
③ 「日本海学」をベースとする取り組みを行政、学術、民間などさまざまな立場から推進し、それぞれの地域が環日本海、北東アジアという枠組みにおいて、これまでの国家中心の考え方から地域中心の考え方への転換を図り、地域のアイデンティティーを確立することにより、真の地方分権によるパラダイムの転換を可能とすること。
6 日本海学の今後
平成一三年三月に富山市で、同年一二月には大阪市で、また、昨年九月には東京で、「森の文明」に焦点を当てた「日本海学シンポジウム」が開催されました。また、日本海学の調査研究の成果を広く発進するため、「日本海学の新世紀」の第一集、第二集を発刊してきました。なお、先にもふれたように伊東俊太郎麗澤大学教授(東京大学名誉教授)を議長とする日本海学推進会議の研究者の方々のご指導の下で歩んできた日本海学ですが、本格的な研究の推進と一層の普及をはかるために、今年二月に「日本海学推進機構」(会長伊東俊太郎氏)が設立され、富山市で記念シンポジウムが開催されました。
また、一昨年七月、昨年七月に開催された五か国三六自治体をメンバーとする北東アジア自治体連合(現在五か国三九自治体)の一般交流分科会において「日本海学」が紹介され、これを支援する方向での合意を受け、取り組みが進められます。
そして、「日本海学」のコンセプトをベースに環境保全に取り組む環日本海のNPO、NGOのネットワークも形成されつつあります。今後、「日本海学」が提唱するフレームワークをベースとして、国内各地や北東アジア地域での行政、学術、民間などさまざまなレベルにおける普及や進展が期待されるところであります。