北前船の登場
江戸時代の日本海を航海した大型回船(荷物を運んで回る船)が「北前船(きたまえぶね)」とよばれるようになったのは、蝦夷地(えぞち:現在の北海道)と大阪の交易が盛んになった18世紀の後半になってからです。
それまで、日本海で使用された「北国船(ほっこくぶね)や「羽賀瀬船(はがせふね)」は、こいだり、帆走(はんそう)したりする「漕帆(そうはん)両用」のものでしたが、瀬戸内海(せとないかい)地方で使われていた「弁才船(べんざいせん)」という船にしだいに変わっていきました。
弁才船は、たいへんすぐれた性能をもった船でした。荷物をたくさん積むことができ、また、風の力を利用して帆だけですすめる「帆走専用船」のため、少数の乗組員だけで航海ができました。
そして、その弁才船を大阪や瀬戸内海の人びとは、日本海を意味する北前から来た船ということから、「北前船」とよぶようになったのです。
日本海を航海した北前船
〜北前船 長船丸(ながふねまる)〜
この模型は射水市柴家所蔵の長船丸(ながふねまる)600石積型をモデルにしたもので、実物のほぼ7分の1の縮尺で作られています。
模型とはいいながら、きわめて精巧に作られており、航海の安全を祈る起舟祭(きしゅうさい)のとき船霊(ふなだま)を祀(まつ)るのに使用されていたものです。
【新湊博物館】
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